2014年7月1日火曜日

tobaccoの薬理作用に関するメモ(序)

学生の頃にtobaccoを覚えてから約15年ほどの間、僕はヘヴィが付く喫煙者でした。

tobaccoを覚えて2年もしないうちにパイプに手を出し、それから喫煙している間、一度もtobaccoをやめようと思った事はなく、自分は一生tobaccoと付き合って行くんだろうなと思っていました。

ところがある朝起きた時に「あ、tobaccoを吸うの、やめよう」と突然思いました。
そしてその日から15年間、一度も「吸いたい」という衝動は起きず
このまま自分は一生tobaccoとは無縁に生きていくのだなあと思っていました。
そんな訳で約15年間の完全禁煙生活を体験しました。

禁煙(断煙)はさほど苦労しませんでした。
あれほど耽溺していた(様に見える)タバコへの衝動は一日目にあっただけで、次の日からはほとんどどうでもよくなり、3日目にはすっかり忘れてしまうのです。

ニコチン依存症がどうとか言われますが、セブンスターやゴールデンバットを一日に20本以上吸っていた自分でも「やめよう」と思い立ってからそんなものを感じた事は一度もありません。

tobaccoを嗜む生活は楽しいものです。
でも、一方で、tobaccoとは無縁の生活も実に素晴らしいものでした。


2014年、とあることがきっかけで喫煙を再開しようと思い立ちました。
再開した理由についてはまた後で書きたいと思いますが
禁煙した時とは全く違い、再開のためには長い逡巡と、小さくない決断力が必要でした。



ともかく喫煙と禁煙に関して非常に多くの体験と教訓、そして知識を得ました。
メリットもデメリットも、文化や歴史や薬理や嫌煙権、陰謀論まで。

禁煙期間も今も、世の中の嫌煙権主張のあまりのヒステリーぶりに閉口し、同時にところ構わず吸いさしを持った手を振り回したりクルマの運転席からのポイ捨てに怒りや切なさは感じています。
しかし嫌煙権のおかげで分煙が進み、喫煙者のマナーが少しずつ良くなっている事は歓迎すべきことだと思います。

やはり人はむやみにタバコの煙を撒き散らしてはいけないし、自分の意思に反して煙を浴びるべきではないのです。

ちょうどいい生きやすい世の中ができる前には、必ずどちらかに針の振り切れる堅苦しい時期は必要なものです。嫌煙の方に針が振りきれた今だからこそ、やっとより良い喫煙とはどうあるべきか喫煙者自身が考え始めたのですから。

心配しなくてもtobaccoはこの世からなくなりません。
世界中の歴史上、何度も禁止されかけてはくぐり抜けてきたtobacco。
未来はもっとこのtobaccoが人類の役に立つ日がやってくるでしょう。

そのためにも、そろそろこの何千年にも渡って人間と共存してきた煙の出る葉っぱについて、正しい知識と見識を持つべき時に来ているのではないかと考えています。

特に今、広く伝播されているニコチンの薬理や依存性、害といわれるものについてはかなりの誤解と誤謬があると考えています。
ここがほんの少し解けるだけでも、喫煙者も嫌煙者も、少しは気持ちがラクになってくるのではないのでしょうか。

そんな気持ちを込めて、僕が知り得たtobaccoの本当の薬理と害についてメモしておこうと思います。

参考になるかどうかは分かりません。
また、これから書く事は個人的経験と常識、託言および仮説によるものであり、科学的医学的に証明されたものとは限りません。
また喫煙を擁護したり奨励するものではありません。
もちろん喫煙を否定するものでもありません。



0 件のコメント:

コメントを投稿